ブルターニュの歴史

ブルターニュの歴史

堅牢な建造物を次々に作ったローマ人や、組織づくりに長けていたゲルマンの人々に対して、先住のケルト人たちは、自由な気風を持ち、自然を畏れ神秘的なものを敬い続けた民族であったと言われています。 西欧文化の深層に隠されたとも言うべきこのケルトの世界が注目される今日、彼らの文化が色濃く残された地、ブルターニュの歴史を知る旅に出かけてみませんか。

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こんにちは

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ブルターニュにおける人類の痕跡はサンマロ近くで70万年前の礫器が発見されたホモ・エレクトスにさかのぼり、Audierne付近で発見された45万年前の火の使用の痕跡はヨーロッパ最古のものです。ホモ・サピエンスの氷河期時代の遺跡も10か所ほどあり、キブロン半島ではフランス最大の中石器時代の遺跡(紀元前7000年頃)が発見され、温暖化後この地の豊かな森と狩猟生活の様子が覗えます。農耕生活が始まった新石器時代になると、メンヒルと呼ばれる0.8~6.5mの立石が東西に5千近く並ぶカルナック列石群と巨石墳墓が紀元前5000年頃から造られます。いずれもピラミッドなどより古く西洋最古の大型建築物です。

この時代、パレスティナで始まった定住農耕がインド・ヨーロッパ祖語を話す人々によってアナトリア(古代トルコ)へ広がり、農耕と同時にヨーロッパに伝播された、という説が有力になっています。この定住農耕をし、馬・牛・豚などの牧畜を行う人々の人口密度は狩猟採集民の50倍以上であり、急激に人口が増加しました。狩猟をする先住民を支配隷属させたということではなく、農耕地が増えるにつれて徐々に農耕民の言語がその土地の言葉と合わさりながらひろがる様子をイメージできると思います。

紀元前4000年頃には金・銀・銅を使用する銅器時代となりますが、この頃ケルト語派、ギリシャ語派、インド・イラン語派などに分化したと考えられています。前3000年頃の青銅器時代を経て前2000年頃に鉱物資源の豊富なアナトリア高原で鉄器が造られ、「赤い河」を意味するクズルウルマックに「ヒッタイト王国」が建国されます。この製鉄技術が紀元前1200年ごろから紀元前500年ごろにかけて各地に伝わり、ハルシュタット文化を生み出したのがケルト人と言われています。

そして前500年間からケルト人の活動範囲、高度な文化の面でも絶頂期であるラ・テーヌ文化期を迎え、1世紀にローマ人によって支配されるまでの間、ヨーロッパ全土で栄華を誇りました。

しかしその貴重な文明の記録を文字に残さず、発見、研究ともにギリシア・ローマ文明と比べて大きな遅れをとることになったのです。

ところで紀元前500年前後ギリシャでKeltoiと呼ばれた「ケルト人」は、ブルターニュの人々の先祖ですが、どこにいつ頃現れたと言えばよいものでしょうか?「ケルト人」と呼ばれる統一した民族が突如現れたのではなく、この新石器時代初期の農民の直系末裔がヨーロッパ各地に広がりながら「ケルト的な性格」を蓄積して独自の文化を発展させた、ということが明らかになりつつあります。「民族」や「人種」では括りきれないほどのこの「ケルト的な」農民たちが何世紀もかかってヨーロッパに豊かな穀倉をつくっていきました。

森を大切にしていたため、彼らが居住地をひろげるときには先住民との戦いもありました。ギリシャのアポロン神殿に攻め入った時には、神々が人間の姿をしていることを知って笑ったそうです。すぐ恋をしてしまうゼウスが最高神など、どこか親密感のあるギリシャの神々に目を丸くしたのでしょうか。自然界のあらゆるものに神が宿っていると考え、山、川、泉やイノシシなどを崇めていた素朴なケルト人たちが、地中海の人々と気質が違っていても不思議はないかもしれません。

さてブルターニュでは前2000年頃の銅製品・金の装飾品が発見されていますが、銅や錫の鉱脈が近いブリテン島南部とブルターニュではそれらの合金である青銅器が前1800年から製造され、この地方に富の蓄積がもたらされました。ブルターニュ地方の文化は新石器時代から青銅器時代まで継続的であり、文化の進化は侵略によるものではなく、文化の受容によるものとされています。

ブルターニュでは前600年頃まで青銅器時代が続き、鉄器時代を迎えました。民族の入れ替わりもなく比較的平穏な時代が続いていたようです。前300年頃のローマの書物にはこの地方でケルト語の地名があることが記され、少なくともこの時代にはブルターニュでケルト語が話されていたことがわかります。ところでこの紀元前500年前後ギリシャで「ケルト人Keltoi」、カエサルらローマ人に「ガリア人 Galli」と記された違いは何でしょう?前278年に小アジアのアンカラ周辺でケルト人のガラチア定住地が造られたことによって、ローマの時代はケルトの民を「ガリア人」と呼んだようです。カエサルの「ガリア戦記」の冒頭に、「その土地の人の言葉でケルタエ人と呼ばれ、我々ローマ人の言葉でガリア人と呼ばれる民族が住んでいる」と説明されるように、「ガリア人」はローマ時代のケルト人の呼び名だったといえます。ただし「ケルト人」(ケルトイ)という呼び名も、ヘロドトスをはじめとする前5~4世紀ギリシャ人による呼び名で、彼らの自称ではありません。

ブルターニュでは、フィニステール地方のオシスミ族、ヴァンヌ周辺のウェネティー族、ナントのナムネテス族、レンヌのリエドネス族、アルモリカニ族、コリオソリテス族などの存在がローマ人により記されています。前2世紀末にはそれぞれが貨幣の製造を行うというローマ文化を取り入れながら、経済的独立を保っていました。ローマ式にアルモリカと呼ばれたこの半島に、紀元前57年マルクス・リキニウス・クラッスス、続いてユリウス・カエサルが遠征し、ブリテン島からのブリテン人の応援をさえぎりながら征服します。紀元前52年のガリア連合軍対ローマ軍とのアレシア決戦はウェルキンゲトリクスの奮戦も空しく、ローマによるガリア・アルモリカの支配が決定的になりました。プロヴァンス地方のプロウィンキア、アキテーヌ地方のアキタニア、ヴェルガエ族の居住地だったベルギー地方がヴェルギガ、その他のフランスがケルティカと分割されます。

2世紀にはレンヌ市に都市参事会(デクリオン)が設けられ、政務官を選出していましたが、60もの部族が参加したリヨンで開かれたガリア州議会にはアルモリカからの参加はなく、あまりローマ化されていなかったようです。ラテン語もあまり発達せず、ケルトの言葉である「ガロ語」が保たれ、ブルターニュは周縁化していました。イスやサンナザール近くにあったというクリスなど水没した街の存在もブルターニュでは伝説に残るだけですが、ギリシャ・ローマ人によって記されています。彼ら自身は文字を使わなかったことも辺境化の一因でした。

その後260年にローマ皇帝がペルシャ軍に捕捉され、ゲルマニアが独立を宣言すると、ローマ帝国は分割統治でこれに対抗します。西ローマ帝国正帝マキシミアヌスと副帝コンスタンティウスがブリタニアのブリトン人をローマ兵として率い、ゲルマニアを平定しました。それがきっかけで元々海をはさんで交流のあったブリトン人がアルモリカに移住をはじめたようで、この半島はブルトン色を強めていきます。この西方皇帝マキシミアヌスはブリテン王として伝えられ、彼の友人コナンがブルターニュ建国起源であるというコナン伝説も今に伝わります。

西ローマ帝国が衰退に向かう5世紀には、ブリテン島からケルト系のブリトン人がアルモリカ半島西部に移住し、小さなブリトンという意味のブリタニー(Brittany、フランス語でブルターニュ)と呼び始めました。ブリテン島のケルト諸族はローマ人と同化せず、大陸に残ったケルト人との文化的差異が顕著でありました。ブルターニュの再なるケルト化は彼らブリトン人によってもたらされます。アングロサクソン人の伸張によって6世紀後半にピークをむかえるブリトン人の移住でしたが、ゲルマンのフランク族が次第に勢力を強め、800年にカルル大帝が西ローマ帝国皇帝となるとフランク王国の支配下に置かれました。

837年にヴァンヌ周辺の統治を任されたノミノエはやがてブルターニュ独立に向かって動き出します。845年ブルトン連合軍はフランク王シャルル2世勢力をバロンの戦い(ルドン近郊のブルターニュ東部、国境付近)で打ち破り、レンヌ、ナントヴァンヌの3カ国から構成されるブルターニュ連合王国として独立しました。846年にローマ法王から承認されたのは、キリスト教の布教が進んだ地方であったことがその背景にあったためと思われます。その後一族のサロモンは西アンジュ―からノルマンディーまでを領地を広げて王国としています。

一方文化的には宮廷でガロ=ラテン語であるフランス語化が進むなど、フランク族はガリアとローマが融合した文化に吸収されていきます。ラテン語「アルモリカ」は、「ブリトン」のフランス語読みで「ブルターニュ」と呼ばれることになりました。フランス語の文書は843年から作成されていますが、ブルトンの言葉であるブレイス語の最古の文書は、590年からの日付の植物学論文です。
西ブルターニュではドゥムノニア王国、コルヌアイユ王国なども何世紀も続きますが、10世紀には再びヴァイキングの襲来が盛んになり、多くの都市や修道院が破壊されます。レンヌやナントもノルマン人の手に渡りますが、936年にイングランド王のもとに避難していたブリトン王アランが、ノルマン人からナントを取り戻します。その後幾度もノルマン人の侵入を退け、大国となっていくフランス・イギリス双方と戦いながら独立を守っていきます。

12世紀に隣国では、アンジュー家が十字軍遠征でエルサレム王になり、またブリテン島のノルマン王朝最後の姫の婿になったアンリは、広大なフランス領地を持つイングランド王家を継ぎ、ヘンリー2世となって「プランタジネット朝」を興しました。

ノミノエ以来続いていたブルターニュ連合は、ブルターニュ西部のドムノニア(Domnonia)、コルヌアイユ(Cornouaille)なども加わっていましたが、女公コンスタンスが1199年にイングランド王子ジェフロワと結婚すると、プランタジネット家はブルターニュ公国をイングランドに併合しようとします。ジョフロワ2世はブルターニュの独立を守ろうとし、息子アルテュールは叔父ジョン王に暗殺されるまで抵抗しました。アーサー王物語はこのアルテュールがモデルとなっています。

一方フランス王は、カペー家縁戚のピエール・ド・ドルーをアルテュールの異父妹アリックスの夫とすることに成功します。ブルターニュ公ピエールは紋章にエルミン(シロテン※)を採用し、ブルターニュ公はその後フランスへ従順しつつ領土の独立性が図られました。

※太古の昔から清廉潔白の象徴だった白いエルミン(冬毛のオコジョ)、ブルターニュ公国最後の公女アンヌ・ド・ブルターニュがブルターニュの紋章にしました。

 

 

 

ブルターニュ公ジャン3世が亡くなると、姪ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと甥ジャン・ド・モンフォールとの両者がブルターニュ公の相続権を主張し、1341年ブルターニュ継承戦争が起こります。フランス側はジャンヌを支援しジャン・ド・モンフォールの同名の息子であるジャンは、イングランドのプランタジネット家の加勢を得て英仏、百年戦争の一部となりますが、1364年のオーレの戦いでジャンが勝利し、戦いは終結しました。ゲランド和議ではジャン4世として公位が確立されると同時に、モンフォール家が途絶えた場合にパンティエーブル家の男子に公位継承権を認めるという、女系による継承がブルターニュで正式に導入されます。

ジャン4世は次第にイングランドに服従するようになり、貴族の反発を買って失脚。フランス各地で英仏百年戦争が続きますが、フランスの劣勢を挽回したのが、勇猛な戦いぶりが後世まで語られるベルトラン・デュ・ゲクランです。こうして力を得てきたフランス王シャルル5世はブルトン貴族と繋がりを強め、ブルターニュをフランス王領へ併合します。そうなると今度は独立を侵されたブルトンが黙っていません。亡命中のジャン4世をブルターニュに呼び寄せ、「フランス王に忠順を誓いながらイングランド=フランス間でのブルターニュの中立を保つ」ということが決められました。

ジャン4世の孫フランソワ2世は、一人娘のアンヌハプスブルク家のマクシミリアン(のちの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)との婚約でフランスを挟み撃ちにする予定でしたが、シャルル8世によるフランス軍に打ち負かされ、婚約解消とシャルル8世との結婚の申し出を受けざるを得なくなります。1491年にアンヌとシャルル8世の結婚式が行われ、ブルターニュのフランス王国への編入の足掛かりとなりました。フランソワ2世が落馬事故で急死した時、残されたアンヌは10歳でブルターニュ公位を継ぎ、十字軍がもたらしたソバの栽培を奨励するなど賢君主として活躍しました。シャルル8世の死後、アンヌは世継ぎのルイ12世との結婚を受け入れ、長女クロードが生まれます。アンヌが1514年に亡くなるとクロードは次期国王フランソワ1世と結婚。1524年にクロードが若死にすると彼女の夫フランソワ1世は1532年の勅令でブルターニュ公国とフランスの連合を宣言します。連合条約が有効に働いている1547年にブルターニュ公であるアンリ2世がフランス王に即位した、という経緯から、新たにフランスの州となったブルターニュは、1789年のフランス革命までかなりの自治権と特権を保持することができました。

フランスへの統合により政治的独立を失ったブルターニュですが、その後16世紀後半から17世紀までがむしろ黄金期となります。しかし1675年にルイ14世が発布した新税に反対した農民一揆で、国王軍に鎮圧され、中央による支配体制が強化されます。

1532年の統合以後、ブルターニュは(地方)3部会によって財政確保、自治を保持し続けました。フランスがプロテスタントユグノー)対カトリックの宗教戦争で17世紀までフランスの経済は沈滞しますが、ブルターニュ全体はカトリック信仰で強くまとまっていました。カトリックに改宗したアンリ4世は、1598年 ナントの勅令(フランス)でユグノーなどの新教徒に対してカトリック教徒とほぼ同じ権利を与え、近代ヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めました。これによりユグノー戦争は終結し、17世紀のフランスの大国時代が幕を開けます。

この宗教戦争の影響をほとんど受けずにブルターニュでは帆布・小麦・塩がイギリス、オランダ、イベリア半島などに輸出され、大航海時代には貿易で栄え、ブルターニュの黄金時代を迎えます。15世紀末140万人程度の人口が17世紀末には200万人、19世紀末には現在同様300万人を超えました。蓄積された富は教会建築などの文化活動に開花します。

ルイ14世の財務総監コルベールの時代、ブルターニュはフランスの海軍増強で大いに利益を得ました。サン・マロ、ブレスト、ロリアンといった主要港が建設・修繕され、ブルトン人はフランス海軍の構成員となったブルトン人は、北米大陸のヌーベルフランス西インド諸島の植民化にも重要な役割を担います。しかしルイ14世により新税である印紙税徴収の王令が発布されると、1675年にコルヌアイユ司教区で暴動が起き、国王軍により鎮圧されます。セヴィニエ夫人はこの時のフランス兵の残酷さを書簡に書き記しています。また18世紀に入るとナントはフランス貿易の4割を占める港となりますが、背景には西インド諸島への奴隷貿易の存在があり、禁止となる19世紀始めまで続きました。

1789年のフランス革命後、パリの国民議会は満場一致でブルターニュのような地方自治という封建的特権の廃止を決め、1532年の勅令で保証されてきた司法上の存在価値、自治や財政、公的特異性を全て失います。地方自治性を失った上、反教会的な革命の特性に対してブルトン人は不満を高め、ヴァンデ県で起きた一揆に加わり、ふくろう党を結成するなど抵抗の温床となります。1789年にはまたフランスの歴史的な州が廃止され、ブルターニュは5つの県に分割再編され、ナントは現在のロワール=アトランティック県となりました。

19世紀のブルターニュは、ロマン主義の高まりも手伝い、素朴な自然、信仰と結びついた祝祭、小作農の伝統が残る自給自足の生活などが評判を得ますが、ブルトンたちの生活は第三共和政の下でますますフランス化します。

1941年ヴィシー政府は、かつて公国の首都だったナントを含む、ロワール=アトランティック県をブルターニュ地方圏から切り離します。
そして以下の①~④が寄り集まってペイ・ド・ラ・ロワール地域圏が造られました。

① ナントのあるロワールアトランティック県
② 旧メーヌ地方(現在のマイエンヌ県とサルト県)
アンジュー地方
④ ポワトゥ地方の一部であるヴァンデ

それぞれ歴史的にも文化圏として異なる4県が合わさる地方圏とされたため、またナント周辺は常にブルターニュの一部であったため、文化的、歴史的、地理的にもブルターニュ地域圏と統合すべきであるという議論も盛んです。2004年にはロワール=アトランティック県人口の62%から75%がブルターニュへの再統合に賛成でした。

また1940年代から、ブレイス語の使用が危機状態となります。ほとんどのブレイス語を話す自治体において、1945年以後に生まれた子供たちにフランス語使用が義務づけられ、学校内でブレイス語を話した生徒には、罰としての札を首にかけられました。1970年代からブレイス語は知識人や専門家の間で保存努力がなされ、都市を基盤としたDiwan二言語学校を通して若年層のブレイス語話者人口減少を食い止めています。

素朴な勤勉さと高レベルな職業訓練、強い連帯意識と世界に向かって開かれたブルトン精神は、モノづくりに生かされ、各地には農産物・水産物を中心とする特産物が豊富で、「ブルターニュ ブランド」を公民一体で盛り上げています。地方アイデンティティーが生む活力は、伝統技術の確かな継承と、地元の産物を原料とする先端技術の開発にも向かい、海藻を利用した製品などで大きな注目を集めています。

ブルターニュにおける人類の痕跡はサンマロ近くで70万年前の礫器が発見されたホモ・エレクトスにさかのぼり、Audierne付近で発見された45万年前の火の使用の痕跡はヨーロッパ最古のものです。ホモ・サピエンスの氷河期時代の遺跡も10か所ほどあり、キブロン半島ではフランス最大の中石器時代の遺跡(紀元前7000年頃)が発見され、温暖化後この地の豊かな森と狩猟生活の様子が覗えます。農耕生活が始まった新石器時代になると、メンヒルと呼ばれる0.8~6.5mの立石が東西に5千近く並ぶカルナック列石群と巨石墳墓が紀元前5000年頃から造られます。いずれもピラミッドなどより古く西洋最古の大型建築物です。

この時代、パレスティナで始まった定住農耕がインド・ヨーロッパ祖語を話す人々によってアナトリア(古代トルコ)へ広がり、農耕と同時にヨーロッパに伝播された、という説が有力になっています。この定住農耕をし、馬・牛・豚などの牧畜を行う人々の人口密度は狩猟採集民の50倍以上であり、急激に人口が増加しました。狩猟をする先住民を支配隷属させたということではなく、農耕地が増えるにつれて徐々に農耕民の言語がその土地の言葉と合わさりながらひろがる様子をイメージできると思います。

紀元前4000年頃には金・銀・銅を使用する銅器時代となりますが、この頃ケルト語派、ギリシャ語派、インド・イラン語派などに分化したと考えられています。前3000年頃の青銅器時代を経て前2000年頃に鉱物資源の豊富なアナトリア高原で鉄器が造られ、「赤い河」を意味するクズルウルマックに「ヒッタイト王国」が建国されます。この製鉄技術が紀元前1200年ごろから紀元前500年ごろにかけて各地に伝わり、ハルシュタット文化を生み出したのがケルト人と言われています。

そして前500年間からケルト人の活動範囲、高度な文化の面でも絶頂期であるラ・テーヌ文化期を迎え、1世紀にローマ人によって支配されるまでの間、ヨーロッパ全土で栄華を誇りました。

しかしその貴重な文明の記録を文字に残さず、発見、研究ともにギリシア・ローマ文明と比べて大きな遅れをとることになったのです。

ところで紀元前500年前後ギリシャでKeltoiと呼ばれた「ケルト人」は、ブルターニュの人々の先祖ですが、どこにいつ頃現れたと言えばよいものでしょうか?「ケルト人」と呼ばれる統一した民族が突如現れたのではなく、この新石器時代初期の農民の直系末裔がヨーロッパ各地に広がりながら「ケルト的な性格」を蓄積して独自の文化を発展させた、ということが明らかになりつつあります。「民族」や「人種」では括りきれないほどのこの「ケルト的な」農民たちが何世紀もかかってヨーロッパに豊かな穀倉をつくっていきました。

森を大切にしていたため、彼らが居住地をひろげるときには先住民との戦いもありました。ギリシャのアポロン神殿に攻め入った時には、神々が人間の姿をしていることを知って笑ったそうです。すぐ恋をしてしまうゼウスが最高神など、どこか親密感のあるギリシャの神々に目を丸くしたのでしょうか。自然界のあらゆるものに神が宿っていると考え、山、川、泉やイノシシなどを崇めていた素朴なケルト人たちが、地中海の人々と気質が違っていても不思議はないかもしれません。

さてブルターニュでは前2000年頃の銅製品・金の装飾品が発見されていますが、銅や錫の鉱脈が近いブリテン島南部とブルターニュではそれらの合金である青銅器が前1800年から製造され、この地方に富の蓄積がもたらされました。ブルターニュ地方の文化は新石器時代から青銅器時代まで継続的であり、文化の進化は侵略によるものではなく、文化の受容によるものとされています。

ブルターニュでは前600年頃まで青銅器時代が続き、鉄器時代を迎えました。民族の入れ替わりもなく比較的平穏な時代が続いていたようです。前300年頃のローマの書物にはこの地方でケルト語の地名があることが記され、少なくともこの時代にはブルターニュでケルト語が話されていたことがわかります。ところでこの紀元前500年前後ギリシャで「ケルト人Keltoi」、カエサルらローマ人に「ガリア人 Galli」と記された違いは何でしょう?前278年に小アジアのアンカラ周辺でケルト人のガラチア定住地が造られたことによって、ローマの時代はケルトの民を「ガリア人」と呼んだようです。カエサルの「ガリア戦記」の冒頭に、「その土地の人の言葉でケルタエ人と呼ばれ、我々ローマ人の言葉でガリア人と呼ばれる民族が住んでいる」と説明されるように、「ガリア人」はローマ時代のケルト人の呼び名だったといえます。ただし「ケルト人」(ケルトイ)という呼び名も、ヘロドトスをはじめとする前5~4世紀ギリシャ人による呼び名で、彼らの自称ではありません。

ブルターニュでは、フィニステール地方のオシスミ族、ヴァンヌ周辺のウェネティー族、ナントのナムネテス族、レンヌのリエドネス族、アルモリカニ族、コリオソリテス族などの存在がローマ人により記されています。前2世紀末にはそれぞれが貨幣の製造を行うというローマ文化を取り入れながら、経済的独立を保っていました。ローマ式にアルモリカと呼ばれたこの半島に、紀元前57年マルクス・リキニウス・クラッスス、続いてユリウス・カエサルが遠征し、ブリテン島からのブリテン人の応援をさえぎりながら征服します。紀元前52年のガリア連合軍対ローマ軍とのアレシア決戦はウェルキンゲトリクスの奮戦も空しく、ローマによるガリア・アルモリカの支配が決定的になりました。プロヴァンス地方のプロウィンキア、アキテーヌ地方のアキタニア、ヴェルガエ族の居住地だったベルギー地方がヴェルギガ、その他のフランスがケルティカと分割されます。

2世紀にはレンヌ市に都市参事会(デクリオン)が設けられ、政務官を選出していましたが、60もの部族が参加したリヨンで開かれたガリア州議会にはアルモリカからの参加はなく、あまりローマ化されていなかったようです。ラテン語もあまり発達せず、ケルトの言葉である「ガロ語」が保たれ、ブルターニュは周縁化していました。イスやサンナザール近くにあったというクリスなど水没した街の存在もブルターニュでは伝説に残るだけですが、ギリシャ・ローマ人によって記されています。彼ら自身は文字を使わなかったことも辺境化の一因でした。

その後260年にローマ皇帝がペルシャ軍に捕捉され、ゲルマニアが独立を宣言すると、ローマ帝国は分割統治でこれに対抗します。西ローマ帝国正帝マキシミアヌスと副帝コンスタンティウスがブリタニアのブリトン人をローマ兵として率い、ゲルマニアを平定しました。それがきっかけで元々海をはさんで交流のあったブリトン人がアルモリカに移住をはじめたようで、この半島はブルトン色を強めていきます。この西方皇帝マキシミアヌスはブリテン王として伝えられ、彼の友人コナンがブルターニュ建国起源であるというコナン伝説も今に伝わります。

西ローマ帝国が衰退に向かう5世紀には、ブリテン島からケルト系のブリトン人がアルモリカ半島西部に移住し、小さなブリトンという意味のブリタニー(Brittany、フランス語でブルターニュ)と呼び始めました。ブリテン島のケルト諸族はローマ人と同化せず、大陸に残ったケルト人との文化的差異が顕著でありました。ブルターニュの再なるケルト化は彼らブリトン人によってもたらされます。アングロサクソン人の伸張によって6世紀後半にピークをむかえるブリトン人の移住でしたが、ゲルマンのフランク族が次第に勢力を強め、800年にカルル大帝が西ローマ帝国皇帝となるとフランク王国の支配下に置かれました。

837年にヴァンヌ周辺の統治を任されたノミノエはやがてブルターニュ独立に向かって動き出します。845年ブルトン連合軍はフランク王シャルル2世勢力をバロンの戦い(ルドン近郊のブルターニュ東部、国境付近)で打ち破り、レンヌ、ナントヴァンヌの3カ国から構成されるブルターニュ連合王国として独立しました。846年にローマ法王から承認されたのは、キリスト教の布教が進んだ地方であったことがその背景にあったためと思われます。その後一族のサロモンは西アンジュ―からノルマンディーまでを領地を広げて王国としています。

一方文化的には宮廷でガロ=ラテン語であるフランス語化が進むなど、フランク族はガリアとローマが融合した文化に吸収されていきます。ラテン語「アルモリカ」は、「ブリトン」のフランス語読みで「ブルターニュ」と呼ばれることになりました。フランス語の文書は843年から作成されていますが、ブルトンの言葉であるブレイス語の最古の文書は、590年からの日付の植物学論文です。
西ブルターニュではドゥムノニア王国、コルヌアイユ王国なども何世紀も続きますが、10世紀には再びヴァイキングの襲来が盛んになり、多くの都市や修道院が破壊されます。レンヌやナントもノルマン人の手に渡りますが、936年にイングランド王のもとに避難していたブリトン王アランが、ノルマン人からナントを取り戻します。その後幾度もノルマン人の侵入を退け、大国となっていくフランス・イギリス双方と戦いながら独立を守っていきます。

12世紀に隣国では、アンジュー家が十字軍遠征でエルサレム王になり、またブリテン島のノルマン王朝最後の姫の婿になったアンリは、広大なフランス領地を持つイングランド王家を継ぎ、ヘンリー2世となって「プランタジネット朝」を興しました。

ノミノエ以来続いていたブルターニュ連合は、ブルターニュ西部のドムノニア(Domnonia)、コルヌアイユ(Cornouaille)なども加わっていましたが、女公コンスタンスが1199年にイングランド王子ジェフロワと結婚すると、プランタジネット家はブルターニュ公国をイングランドに併合しようとします。ジョフロワ2世はブルターニュの独立を守ろうとし、息子アルテュールは叔父ジョン王に暗殺されるまで抵抗しました。アーサー王物語はこのアルテュールがモデルとなっています。

一方フランス王は、カペー家縁戚のピエール・ド・ドルーをアルテュールの異父妹アリックスの夫とすることに成功します。ブルターニュ公ピエールは紋章にエルミン(シロテン※)を採用し、ブルターニュ公はその後フランスへ従順しつつ領土の独立性が図られました。

※太古の昔から清廉潔白の象徴だった白いエルミン(冬毛のオコジョ)、ブルターニュ公国最後の公女アンヌ・ド・ブルターニュがブルターニュの紋章にしました。

ブルターニュ公ジャン3世が亡くなると、姪ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと甥ジャン・ド・モンフォールとの両者がブルターニュ公の相続権を主張し、1341年ブルターニュ継承戦争が起こります。フランス側はジャンヌを支援しジャン・ド・モンフォールの同名の息子であるジャンは、イングランドのプランタジネット家の加勢を得て英仏、百年戦争の一部となりますが、1364年のオーレの戦いでジャンが勝利し、戦いは終結しました。ゲランド和議ではジャン4世として公位が確立されると同時に、モンフォール家が途絶えた場合にパンティエーブル家の男子に公位継承権を認めるという、女系による継承がブルターニュで正式に導入されます。

ジャン4世は次第にイングランドに服従するようになり、貴族の反発を買って失脚。フランス各地で英仏百年戦争が続きますが、フランスの劣勢を挽回したのが、勇猛な戦いぶりが後世まで語られるベルトラン・デュ・ゲクランです。こうして力を得てきたフランス王シャルル5世はブルトン貴族と繋がりを強め、ブルターニュをフランス王領へ併合します。そうなると今度は独立を侵されたブルトンが黙っていません。亡命中のジャン4世をブルターニュに呼び寄せ、「フランス王に忠順を誓いながらイングランド=フランス間でのブルターニュの中立を保つ」ということが決められました。

ジャン4世の孫フランソワ2世は、一人娘のアンヌハプスブルク家のマクシミリアン(のちの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)との婚約でフランスを挟み撃ちにする予定でしたが、シャルル8世によるフランス軍に打ち負かされ、婚約解消とシャルル8世との結婚の申し出を受けざるを得なくなります。1491年にアンヌとシャルル8世の結婚式が行われ、ブルターニュのフランス王国への編入の足掛かりとなりました。フランソワ2世が落馬事故で急死した時、残されたアンヌは10歳でブルターニュ公位を継ぎ、十字軍がもたらしたソバの栽培を奨励するなど賢君主として活躍しました。シャルル8世の死後、アンヌは世継ぎのルイ12世との結婚を受け入れ、長女クロードが生まれます。アンヌが1514年に亡くなるとクロードは次期国王フランソワ1世と結婚。1524年にクロードが若死にすると彼女の夫フランソワ1世は1532年の勅令でブルターニュ公国とフランスの連合を宣言します。連合条約が有効に働いている1547年にブルターニュ公であるアンリ2世がフランス王に即位した、という経緯から、新たにフランスの州となったブルターニュは、1789年のフランス革命までかなりの自治権と特権を保持することができました。

フランスへの統合により政治的独立を失ったブルターニュですが、その後16世紀後半から17世紀までがむしろ黄金期となります。しかし1675年にルイ14世が発布した新税に反対した農民一揆で、国王軍に鎮圧され、中央による支配体制が強化されます。

1532年の統合以後、ブルターニュは(地方)3部会によって財政確保、自治を保持し続けました。フランスがプロテスタントユグノー)対カトリックの宗教戦争で17世紀までフランスの経済は沈滞しますが、ブルターニュ全体はカトリック信仰で強くまとまっていました。カトリックに改宗したアンリ4世は、1598年 ナントの勅令(フランス)でユグノーなどの新教徒に対してカトリック教徒とほぼ同じ権利を与え、近代ヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めました。これによりユグノー戦争は終結し、17世紀のフランスの大国時代が幕を開けます。

この宗教戦争の影響をほとんど受けずにブルターニュでは帆布・小麦・塩がイギリス、オランダ、イベリア半島などに輸出され、大航海時代には貿易で栄え、ブルターニュの黄金時代を迎えます。15世紀末140万人程度の人口が17世紀末には200万人、19世紀末には現在同様300万人を超えました。蓄積された富は教会建築などの文化活動に開花します。

ルイ14世の財務総監コルベールの時代、ブルターニュはフランスの海軍増強で大いに利益を得ました。サン・マロ、ブレスト、ロリアンといった主要港が建設・修繕され、ブルトン人はフランス海軍の構成員となったブルトン人は、北米大陸のヌーベルフランス西インド諸島の植民化にも重要な役割を担います。しかしルイ14世により新税である印紙税徴収の王令が発布されると、1675年にコルヌアイユ司教区で暴動が起き、国王軍により鎮圧されます。セヴィニエ夫人はこの時のフランス兵の残酷さを書簡に書き記しています。また18世紀に入るとナントはフランス貿易の4割を占める港となりますが、背景には西インド諸島への奴隷貿易の存在があり、禁止となる19世紀始めまで続きました。

1789年のフランス革命後、パリの国民議会は満場一致でブルターニュのような地方自治という封建的特権の廃止を決め、1532年の勅令で保証されてきた司法上の存在価値、自治や財政、公的特異性を全て失います。地方自治性を失った上、反教会的な革命の特性に対してブルトン人は不満を高め、ヴァンデ県で起きた一揆に加わり、ふくろう党を結成するなど抵抗の温床となります。1789年にはまたフランスの歴史的な州が廃止され、ブルターニュは5つの県に分割再編され、ナントは現在のロワール=アトランティック県となりました。

19世紀のブルターニュは、ロマン主義の高まりも手伝い、素朴な自然、信仰と結びついた祝祭、小作農の伝統が残る自給自足の生活などが評判を得ますが、ブルトンたちの生活は第三共和政の下でますますフランス化します。

1941年ヴィシー政府は、かつて公国の首都だったナントを含む、ロワール=アトランティック県をブルターニュ地方圏から切り離します。
そして以下の①~④が寄り集まってペイ・ド・ラ・ロワール地域圏が造られました。

① ナントのあるロワールアトランティック県
② 旧メーヌ地方(現在のマイエンヌ県とサルト県)
アンジュー地方
④ ポワトゥ地方の一部であるヴァンデ

それぞれ歴史的にも文化圏として異なる4県が合わさる地方圏とされたため、またナント周辺は常にブルターニュの一部であったため、文化的、歴史的、地理的にもブルターニュ地域圏と統合すべきであるという議論も盛んです。2004年にはロワール=アトランティック県人口の62%から75%がブルターニュへの再統合に賛成でした。

また1940年代から、ブレイス語の使用が危機状態となります。ほとんどのブレイス語を話す自治体において、1945年以後に生まれた子供たちにフランス語使用が義務づけられ、学校内でブレイス語を話した生徒には、罰としての札を首にかけられました。1970年代からブレイス語は知識人や専門家の間で保存努力がなされ、都市を基盤としたDiwan二言語学校を通して若年層のブレイス語話者人口減少を食い止めています。

素朴な勤勉さと高レベルな職業訓練、強い連帯意識と世界に向かって開かれたブルトン精神は、モノづくりに生かされ、各地には農産物・水産物を中心とする特産物が豊富で、「ブルターニュ ブランド」を公民一体で盛り上げています。地方アイデンティティーが生む活力は、伝統技術の確かな継承と、地元の産物を原料とする先端技術の開発にも向かい、海藻を利用した製品などで大きな注目を集めています。

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